アンさん

「いらっしゃい」

 女性は笑顔で手を顔の横にあげていた。

「アンさんだ」

「本当だ。アンさん、こんにちは」

 シイは横で小さく頭を下げた。

「久しぶり?でもないわね。パン買いにきたの?」

「はい、新しいのが置いてあるみたいだったので」

 そう言うと、シイは微笑みを残して店に入っていった。アンさんはニコニコと笑っていた。

「相変わらず君たちは仲が良いね」

「そうですか?」

 扉の隙間から、シイが店主と話しているのが見えた。

「君は買っていかないの?」

 アンさんは店のほうを指さしていた。

「さっきシイも言っていたけど、新作が置いてあるよ」

「俺はそんなに来ないからどれも一緒なんですよね。……ところで、失礼なことを聞いても?」

「どうぞ?」

「今、男います?」

 アンさんは一瞬固まったように見えた。そしてそれは、徐々に意地悪な笑みに変わっていった。

「そんなに失礼だと思ってなさそう」

「まあ正直」

「何か相談事?」

「いえ。ただそれだけ知りたくて」

「ふーん?」

 アンさんは探るような視線を向けた後、何かに気づいたような顔で、ああ、なるほど、とつぶやいた。

「今はいないよ。楽しければお茶くらいなら付き合えるかな。そう伝えといて」

「分かりました」

「そういう君はどうなのよ」

「どうとは?」

 アンさんは小指を立てて、口の動きだけでこれ、と言った。

「特に何も」

「そう、君も人たらしだね」

アンさんは興味なさそうにそう言って、店のほうに目を向けた。カラン、という音とともにシイが出て来た。手には紙袋を持っている。口が開く前に、紙袋から取り出したパンを突っ込まれた。

「あげるわ」

「……」

 シイはおかしそうに笑ってアンのもとへ行った。

「買ってきました」

「いつも贔屓にありがとうございます」

 そしてシイは何ごともなかったかのようにアンさんと話し始めた。窓越しに店主と目が合った。ただそれは一瞬で、店主はすぐに自分の仕事に戻っていった。

「おいしいです。やっぱり外れない」

「でしょう。今回も力作です。あそうだ。おばさん元気してる?」

「はい、相変わらず」

「それはよかった。最近会ってなかったからねえ」

「しばらく帰ってきてないですからね。これも食べさせてあげたい」

「今度持って行ってあげなよ」

「そうします」

 シイは無邪気に笑った。空は暗い青色になりつつあった。シイとアンさんがそれを気にする様子はない。

「そうだ。あれ、大丈夫だった?」

「はい、とっても助かりました」

「まあ私が紹介するまでもなかったと思うけど」

「いえ、そういうわけにもいかなくて」

 シイはアンさんの耳に顔を近づけた。やがてアンさんは、あー、とつぶやいた。

「なるほどね」

「そうなんですよ」

 シイは少し困ったような顔で笑った。彼女にかけようとした声は、聞きなれない音によって喉元でつまずいた。シイとアンさんは気づいていないようで、話しを続けている。周りに人はいない。音がした方角も、普段と変わらない光景が広がっているだけだった。

「なあシイ、そろそろ―」  声は彼女に届く前にかき消された。

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